※2019年の記事です。
こんにちは!
essenceの小山です(^-^)
久しぶりのブログが、ちょっとミステリアスな雰囲気なタイトルですが、良かったら読んで下さい(⌒‐⌒)
少し長くなりますが…(^_^;)
それは遡ること丁度一年前の出来事です。
2019年4月2日。
それからさらに遡ること2日。
3月30日にそれは始まりました。
当時、妻のお腹の中には我が家第一子となる女の子がいました。
その日は土曜日で僕はいつも通りお店で仕事をしてから帰りました。
帰宅後、夕食をいつも通り食べ終えましたが、なんだか妻も僕も落ち着きがありません。
それもそのはず、妻はすでにおしるしもきていて予定日を迎えていました…。
もしかしたら……とドキドキした状態でした。
そしてそれは夜の10時頃だったと思います。
妻がなんだかいつもと違う痛みをお腹に感じ始めました。
痛みの間隔を計り、もしかしたら陣痛かも?
と病院に電話しました。
病院の方はとても落ち着いていて、痛みが強くないようなら、もう少し様子を見て下さいと。
妻も初めての事なので、この痛みが強いのか弱いのか良くわからなかったと思います。
しばらくしてから、お互いの家族に連絡をして病院に向かいました。
この時の妻は、不安と期待が入り交じった複雑な心境だったと思います。
ですが、その様子は僕にはなんだか少しワクワクしたようにも見えました。
この時はまだ、あんな辛い思いをするとは二人ともつゆ知らず……笑
病院に着き、病室で身支度を整え、この後の事に備えていきます。
そしてここから妻の命懸けの戦いが始まって行くのでした。
(この戦いが本当に長かった……笑)
(妻はさぞかし辛かったことでしょう……泣)
最初はそこまで強い痛みではなさそうでしたが、時間の経過と共に痛みが強まるようで、次第に妻が苦しみ出しました。
数分ごとに来る強い痛みの波がくるようで、なんとか和らげてあげようと、僕は腰の辺りを擦ってあげます。
必死に痛みに耐える妻。
もともと痛みには弱い妻が必死に痛みに堪える姿は、見てる僕も辛くなるくらいでした。
「頑張れ」と声をかけ、腰を擦ってあげることしか出来ない僕。
何度も痛みに耐え、苦しむ妻の姿がお産の過酷さを僕に痛感させました。
それでもまだ産まれそうにありませんでした。
そしてこの状況が大きく変わることはなく朝まで続きました。
その夜が開けて日曜日の朝。
その日も仕事だったため、こんな状況の中、妻に付き添えないのは申し訳なかったけど、僕は一時帰宅することにしました。
無事に産まれ早くこの辛さから解放させてあげたい気持ちと、出産に立ち会えないかもという寂しさがありました。
気が気じゃないまま仕事をし、連絡を待っていましたが、産まれたと言う連絡は来ませんでした。
仕事を終えてから病院に着き、妻の様子を伺うと、1日中痛みはあったものの、進展はなかったようです。
少し痛みが和らいだこともあったようで、その点は体力的に良いことだったのかもしれません。
今日は産まれなそうだからと、妻は僕に気を使ってくれました。妻も今夜は少しは痛みが和らいでいるので、休めそうとのことでしたので、僕は少しほっとして帰宅することになりました。
翌日は4月1日月曜日。
お店が定休日ですので、僕は朝から病院に行きました。
以前お客さんとした会話で、
「僕の休みのタイミングと重なれば立ち会いたいですね」
とお話しした時に、
「大丈夫ですよ。赤ちゃん空気読んでくれますから笑」
とお客さんに言われた事がありました。
そんな会話を思いだし、2日前に病院に入ったのに4月1日を迎え、僕の休みとタイミングが合ったことに少しビックリしました。
その日の午前中は新元号の発表日で、病室のベッドで妻がテレビに背を向け横たわり、僕がそのテレビを見てたのを覚えています。
ちょうどその頃に促進剤を使い始めました。
午前中ももちろん妻が苦しむくらいの強い痛みの波はきていましたが、促進剤を使ってからはやはり痛みが強まっていったと思います。
そこからはまた強い痛みの波に耐える時間が続きます。
いつまでこの時間は続くんだろう?
と僕は思っていました。
でもきっと妻の方が何百倍もそんな気持ちにかられながらも戦っていたんだと思います。
夕方から夜になっても産まれる気配はなく、妻のお母さんと僕の母も心配で駆けつけてくれました。
皆で妻を勇気づけ、励ましましたが状況が進展することはありませんでした。
このまま苦しい状況が続くのであれば、いっそうのこと帝王切開をした方が楽になるんじゃないかと思いました。
ですが、まだ妻が痛みから解放される事はなく、時間が過ぎ病院の消灯時間もあったので、義母さんと母は心配な気持ちもありましたが、病院を後にすることに。
夜は深まりますが、変わらず痛みに耐える妻。
僕もなんとか妻を励まし続けました。
時折看護師さんが、様子を見に来てはくれるものの、もう少し様子を見ましょうと。
大きな進展がないまま、同じ状況が繰り返されました。
時間だけが過ぎて行きました。
体勢を変えてみたり、椅子に座ってみたり、気を紛らせることは少し出来たとしても、状況はそう変わらなかったです。
僕も立ち会って初めて知ることが出来ましたが、痛みが続いても産道が開いてくれないと、赤ちゃんがお腹から降りてこれず、なかなか出てきてくれないみたいです。
痛みは長らく続いていましたが、産道の開きがまだ足りなくて、赤ちゃんが産まれる状況にはなっていなかったのです。
時刻は深夜3時頃だったと思います。
あまり状況は変わりませんでしたが、妻が隣の分娩室に移動しました。
そこで様子を見ながら、出産に備える事になったのでしょうか。
産道はそこまで開いてなかったと思いますが、長時間痛みに耐え続けた妻の体力と精神も限界に近かったはずです。
看護師さんがいつでも産めるように、移動してくれたのかもしれません。
僕はまだ隣の部屋で待っていましたが、妻の痛みに耐える声はずっと聞こえていました。
深夜の静かな病院で響く妻の苦しむ声を聞く事になるなんて、誰が想像したでしょう。
その出来事は忘れられない光景でした。
隣の部屋から妻の声が聞こえながらも、睡魔と疲れからか僕も少しウトウトとしてしまっていました。
そうしていると、隣の分娩室から少しバタバタするような看護師さんの足音が聞こえて来ました。
なにやら電話で誰かと話している様子でした。
分娩室が少し慌ただしくなり始めた頃に、僕も呼ばれて妻の側に行きました。
しばらくすると、男性の先生が分娩室にはいって来ました。
女性看護師さん2人(内1人は助産師さん?)と男性の先生の3人でなにやら状況を説明しながら話しています。
あまり話の内容は覚えていませんが、順調に産道が開いて、いよいよ産めるっていう状況ではなさそうで、まだ開ききってはないけど、やってみるかったいう雰囲気でした。
そして、あれよあれよと分娩に移っていきました。
今までの長い沈黙を破るかのように、状況は急展開を迎え、妻も必死に立ち向かい始めました。
僕はその場の雰囲気にのまれそうになりながらも、妻の手を握り、妻の必死な気持ちに答えました。
良くドラマなどで見る、「ヒッヒッフー」っていう呼吸法は無かったけど、額に血管が浮き出るほど、いきんだ妻の顔は目に焼き付いています。
妻が何度も渾身の力でいきみ、助産師さんが大きな声で妻に話しかける中、先生は冷静にその瞬間へと導いてくれました。
「おぎゃーー」と本当に産声をあげて、娘は妻のお腹から出てきてくれました。
妻の第一声は「かわいい」だったと思います(^^)
あれだけの辛い時間に耐え、過酷な分娩を終えた直後に「かわいい」と言える妻は、いつの間にか母親になっていたのでしょうか。人間として凄さを感じました。
僕も自然と涙がこぼれました。
良く頑張ってくれたと心の底から思いました。
妻も安堵感からか涙を流しながら喜んでいました。
本当に今までの辛さを忘れるくらいの幸福な時間が訪れました。
時刻は4時近くだったと思いますが、妻はニコニコしながら赤ちゃんを見つめていました。
しばらくして、赤ちゃんは検査のため、一旦別室に。
僕と妻も、荷物を持って病室へ移動しました。
明け方近くなってましたが、家族からも祝福のメッセージが届いたりと、今までの過酷な状況から一変して、皆が幸せムード一色でした(^^)
その後、妻のお母さんが病院によってくれて、入れ替る形で僕は一時帰宅することにしました。
次に僕が病室に行った頃には、妻も体の痛みはあるものの、元気そうで、子供も同じ病室にいて、初めて抱っこすることが出来ました(^^)
30日、31日、1日、2日と約4日弱と、とても長い長い妻の出産はなんとか無事に終えることが出来ました。
以前から、この時の気持ちを忘れたくないと思っていて、どこかに書き記そうとずーっと思っていたのですが、なかなか実現させることが出来ず、ようやく1年後の4月2日。娘の誕生日に、このブログを書くことが出来ました。
1年前の事なので、時間は経っていましたが、また当時のことを思い出し、妻と娘への感謝の気持ちを噛みしめる事が出来ました(^^)
またいつかこのブログを読み返し、当時の気持ちを思い出して、いつまでも家族と仲良く暮らして行きたいと思います(^^)
長くなりましたが、最後まで読んで頂きありがとうございました!
現在、世間ではコロナウイルスが大流行しており、世の中の雰囲気も暗くなってしまっている状況に感じます。
ですが、家族や周りの人たちと助け合い、乗りきってまた明るい未来にしていきたいですね(^^)
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